法廷で被害者に暴言 二次被害、懸念現実に(産経)


http://headlines.yahoo.co.jp/hl?a=20090210-00000031-san-soci

「おまえたちは呪(のろ)われるぞ。茶番、エセ裁判だ」−。被害者が法廷で直接質問できる「被害者参加制度」が適用された事件の初公判が9日、東京地裁(藤井俊郎裁判長)で開かれた。傷害罪に問われた無職の男(43)が公判中に大声で暴言を吐いて、被害女性が泣き出す一幕があった。被害者が法廷で二次被害に合う可能性が指摘される同制度の懸念が浮き彫りになった格好だ。


今朝のNHKニュース「おはよう日本」でも特集が組まれ(これとは別件)、被害者や被害関係者の処罰感情を一定程度満たすことで慰謝する効果があったとした一方で、加害者がまるで懺悔や悔悟を示さずに却って被害者の感情を逆なでするケースもある、などとしていました。
こういったことは一般的には容易に想像されるだけに、訴訟による被害者の救済という趣旨は理解できるものの、なんでここまで安直に制度化してしまったのかなと思わないではありません(業過などでは、過剰な処罰感情の開陳に却って開き直ってしまう加害者も多いんじゃないかと思ったり)。


そもそも、法規範を犯したとして国民と国家が対峙する刑事訴訟を、そういう場として使うところに無理があるんじゃないでしょうか(抽象的には被害者である国民を国家の側に加担させることになるが、その点はさておき)。
アメリカの例ですが、十年近く前にテレビのドキュメンタリーで観たものは、あくまで観た範囲でですが納得のいくものでした。それは、被害者や被害者遺族が禁固刑を受けている加害者を何度も訪問、ソーシャルワーカーを間に挟んで対話を繰り返すというプログラムで、それは被害者救済と加害者の更生を目的としたものでした。一神教がさほど普及しておらず、こういう「ガチ」なコミュニケーションのテクニックも社会的に準備されていない我が国では結構難しいと思うのですが、こういった、訴訟と切り離した形でないと、単に加害者と被害者が再び「なまで」対面する場を国家が設けているだけであり、二次被害を徒に拡大するだけではないか、と危惧します。