家族のプライヴァシー

精神科医である斎藤環氏の「家族の痕跡−いちばん最後に残るもの」(ちくま文庫)、暇をみて通読中。

その、世間と家族と個人の関係性を論じた章で、欧米と日本のプライヴァシー概念の違いが述べられていて、ほぅと。

すなわち、プライヴァシーについて、欧米では完全に個人のものとしてみるが、日本では家族のものとしてみる(家族が、個人のプライヴァシーの対外的障壁となっている)、というのである。

この違いから、社会が家族に介入する度合いが欧米では強く、日本では弱い傾向があり、このことが日本独特のひきこもりや児童虐待の放置の遠因となっているのではないか、といった分析なのだが(細かく言うとちょっと違う書き方だが...)、そのことの当否はともかく、このプライヴァシー概念の違いは、ちょっと眼から鱗だった。

というのも、憲法上のプライヴァシー概念は、「1人で放っておいてもらう権利」あるいは「自己情報コントロール権」などとされ、どちらも自己決定が前面に出ているものです。
しかし、我が国での実際のプライヴァシー開示のあり方をみると、例えば、本書でも指摘があるが、個人の精神疾患治療経験を出版するにも、その個人はちゃんと判断能力がありながら、家族の同意が必要であったりして、家族が成員のプライヴァシーを自己のプライヴァシーとして扱うようなことがまま見られます。
また、「石に泳ぐ魚(さかな)」事件のような個人のプライヴァシー(名誉、名誉感情)侵害が問題になった訴訟において、家族の経歴が個人のプライヴァシーの一部となっていたりして、家族のプライヴァシーと個人のプライヴァシーが重なったり、影響を及ぼしあったりすることもみられます。


なるほど、数年前の司法試験の公法で、家族の遺伝情報の自己への開示が違法かどうか、という点が問題となりそうな出題がされていたのですが、家族のプライヴァシーというのものを重くみる見解があるとしたら、家族のものだから問題ない、という結論を導くことも不可能ではないかも...

...などと、余計なことを書いてしまったが、上記をつらつら眺めてみて、ちょっと自分が勘違いしているところもあったな、と反省。
家族の成員とはいえ個人のプライヴァシーは憲法上あくまでその個人のものなので、その家族がコントロールしようとすることは違法となる可能性があります。ので、個人の遺伝情報はあくまでその個人のものであるから、家族とはいえ他人である以上、勝手に開示請求できないのは当然。
一方、組織としての家族そのもののプライヴァシーはその成員それぞれに帰属することになるので、成員による開示には他の成員の同意が必要となるし、外部者による開示には家族の一成員として侵害を訴えればよい、とイメージすればいい。だから、勝手な家族歴の公開についても、家族の一員としていちゃもんをつけることができるわけです。


なんだ、簡単じゃん。

家族の痕跡 いちばん最後に残るもの (ちくま文庫)

家族の痕跡 いちばん最後に残るもの (ちくま文庫)